実はその時、甲骨文字と金文の「微」の字形も『甲骨文字典』や『金文編』などで見ていたのだが、上のブログの画像に出したような隸書時代のものとも、似てもにつかないものだった。いったいどこから「耳」(のような部分)を含んだ字体が出てくるのだろうと、不思議に思ったが、古文字の専門家でもなんでもないので、お手上げだった^^
それと、ひとつ前の記事、「X.『経籍纂詁』と「説文遊び」」で、『説文解字』の篆文は、あまり当てにならないことをチラッと述べた。まぁ、「説文」の篆書があやしいことは、少し「説文」やら篆書やら出土資料を歴史的に扱えば、分かることではあると思う。
今日、たまたま仕事で使うためにあれこれ考古関係の本を見ていたのだが、ずばりこのことに触れた記事のある論文を見つけた。かの松丸先生のもの。学術関連での引用で、かつ出典を明記し部分的な引用なので著作権には触れないと思うので、下に画像をあげておこう。
松丸道雄「河南鹿邑県長子口墓をめぐる諸問題-古文献と考古学との邂逅-」、日本中国考古学会『中国考古学』第四号、2004年11月、p229より。(下記画像をクリックすると読めます。文章が読めます)

漢代では唯一「樊敏碑」で「微」と作ることは、たしか『碑別字』だったかで見たのだが、清代の重刻の可能性が高くて信頼性に欠ける、との指摘は、拓本の伝来などをも含めて考えなくてはいけないことを教わった。「あ、そうか!」と思わず膝を打つとはこのことか^^
とにかく、この松丸先生の論文は、青銅器の「長子口」と読める銘文が文献資料に見られる「微子啓(開)」であることを古文字学的に解明したもので、触れられている問題は多岐にわたるが、非常に示唆的で充分な説得力のある論文だと感じた。
なぜ、金文の「長子口」が、現在見られる古典籍では「微子啓」となったのか。具体的には実際の論文を読んでもらうしかないが、誤解をおそれずにごく単純化して言うと次のようなものである。
具体的な甲骨・金文資料の検討を経て
周初に「長」であったものが、漢代文献中で「微」と書かれた具体的経緯の詳細は不明だが、この二字が前代の古文においては、極めて混同しやすいものだった(同p.232)
ことを確認し、類例を挙げて漢代での「意図的な書き換え」の可能性も示唆する。この部分は、論文の大半を占める部分であるが、多くの文字例を画像で提示し、諸説をも検討している。
「子口」については、人名表記で「某子某」「子某」の例を挙げて、そうした表記方法があったことを述べる。また「口」は「啓」と声母は同じで韻母は異なるものの、この墓から出た金文銘の性格を踏まえ、略字(省文)として両者が通行しえたことを言う。従って、「微子啓」は「微・子啓」と読まれるべきだとする(他の理由もあり、漢代以降は「微子・啓」と解釈されてきたが、それは誤り)。
最後に、『史記』宋世家で「微子開」としているのは、陳垣『史諱挙例』をあげて、漢代の前漢景帝の諱・啓を避けたものとする。
もちろん上に書いたもの以外の例証も挙げられている。
たまたま自分が関心を持った「微」字の字体の歴史に触れられていて、ちょっと感動。
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テーマ:漢字 - ジャンル:学問・文化・芸術