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古代中国箚記

古代中国の文章・文物・歴史・研究について。とりあえず漢文(古典漢語)や漢字について徒然なるままに、また学会覚書、購書記録なども記していきます。

中国大陸で終戦後に戦死した大叔父のナゾに迫りて(その3)(陸軍の組織)

前回までの流れはこちら↓
その1:http://ancientchina.blog74.fc2.com/blog-entry-579.html
その2:http://ancientchina.blog74.fc2.com/blog-entry-590.html

大叔父修蔵さんは、1945年8月20日、すなわち終戦後に、監利県何家橋で“戦死”していました(除籍謄本+軍歴関係書類)。
所属部隊は、独立歩兵第90大隊で、当時は何家橋から45kmも離れた場所に駐屯していました(部隊行動略歴)。

もう少し、独立歩兵第90大隊について、アジア歴史資料センター:通称アジ歴https://www.jacar.go.jp/)で調べてみました。アジ歴には、防衛省防衛研究所所蔵の戦中から戦後にまとめられた、軍事関係の史料がたくさん公開されているからです。

まず、独立歩兵第90大隊は、独立混成第17旅団に属しており、旅団は以下のような構成でした(アジ歴レファレンスコード:C12120978200)。人数は、1945年1月30日付。

独立混成第17旅団(司令部)  205名
  独立歩兵第87大隊  1549名
  独立歩兵第88大隊  1549名
  独立歩兵第89大隊  1549名
  独立歩兵第90大隊  1549名
  独立歩兵第91大隊  1549名
 独立混成第17旅団砲兵隊  421名
 独立混成第17旅団工兵隊  178名
 独立混成第17旅団通信隊  175名
                    合計5167名


17BS.jpg
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12120978200、第6方面軍編制人員表 支那「漢ロ」 昭13年6月~20年(防衛省防衛研究所)」7ページ目

この史料には、通称号の「峯8105」 も確認できる。

自分の知りたい人が所属していた部隊の、
・名称  (独立歩兵第60大隊)
・通称号  (峯8105)
・軍隊符号(上記史料には未掲載)  (90ibs)  
は、調査にあたり必ず必要になる
ので、まずおさえましょう!
rikugunbutai.jpg
軍隊符号については、とりあえずWikipediaの軍隊符号のページが参考になります。独立歩兵大隊は“ibs”でした。上の画像の17BSは、独立混成第17旅団を、34Aは、第34軍を意味しています。

平和祈念展示資料館労苦体験手記https://www.heiwakinen.go.jp/library/shiryokan-heiwa/)には、たくさんの兵士の実際の経験談が載せられていて興味深いのですが、その「参考」として左のような部隊組織図が掲載されています。

さて、アジ歴には「部隊行動略歴」の他に、「独立歩兵第90大隊歴史」(【第4】中隊長:岡根清蔵氏作成)(C13032309900)というのがありました。これは、大隊の行動略歴をさらに詳しく記載し、その上、第四中隊についても記してある、私にとってありがたい史料でした。

そこから、昭和20年の独立歩兵第90大隊が、第1中隊・第2中隊・第3中隊・第4中隊の4中隊構成だということが、また昭和20年3月31日現在では、総勢1308名が所属していることが分かりました。
ということは、1中隊は約300名ということになります。


左の図を参考に考えると、独立歩兵第90大隊は、4つの中隊を持ち、各中隊はまた小隊に分かれ、時にはさらに分隊に分かれるということでしょう。

また、前回、部隊略歴では、

1943/03/15 岳州長安付近警備


とだけありましたが、「独立歩兵第90大隊歴史」には、以下のようにありました。

1943/03/15 岳州長安附近警備(第四中隊 李仙冲陣地)



同じ“独立歩兵第90大隊”でも、第4中隊は別のところに駐屯していたわけです。lixianchongxin.jpg
さて、この“李仙冲”なる地名は、現在の中国には存在していないようで、百度地図https://map.baidu.com/)で検索してもヒットしません。そんな時の裏技として、ピンインを入力するというものがあります。仙のピンインはxiānなので、xianを入力すると、同じ発音をする地名を候補で出してくれます。

現在では“李先冲”という地名でした(これは当時の地名が聞き取りを中心として地図を製作したので、李先冲が誤って李仙冲とと地図に載ってしまった可能性や、李仙冲から李先冲に地名を変えた可能性などが考えられます)

現在の岳陽市長安街(当時の岳州長安)から李先冲(当時の李仙冲)まで、直線距離で、22kmありました。
yueyanglixianchong.jpg

第四中隊だけが、本隊と離れて駐屯していたとは、少し考えにくいでしょう。

岳州は日本軍の集合地点でもあり、ここから部隊が第一線の戦場へと編制されて行くことが少なくありません。

そう考えると、1中隊300名余の4中隊は、岳州から20km内外のところに駐屯していても、おかしくはありません。

そして、中隊は中隊で、一箇所にいたのではなく、やはり小隊に分かれて行動していたと考えるのが、妥当でしょう。

今まで戦争の実態について、よく知らなかったので、“おそらくごく当たり前のこと”を言っていると思います。

これで修蔵さんが45kmも部隊(本部)から離れたところで戦死した“ナゾ”は説明できそうです。

次回はようやく、なぜ終戦後に戦死したのか、に迫ります。

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