修蔵さんの“陸軍戦時名簿”と“部隊行動略歴”を見比べれば、事実は分かるはずとふみました。以下、その両者を見比べてみましょう。
まずは、中支に派遣されていた現地部隊に加わるまでは、陸軍戦時名簿にしか載っていません。
ちなみに【 】は僕が補ったコメントなどです。
1940/12/01 第二補充兵役編入
1942/09/05 教育召集ノタメ歩兵第130聯隊ニ応召【仙台】
1942/09/05 陸軍二等兵
1942/09/05 同日第三中隊ニ編入【仙台】
1942/09/05 召集二依リ東部第13部隊ニ応召【世田谷】
1942/11/20 召集解除【世田谷】 【仙台と世田谷で兵士としての教育・訓練を受けたようです】
【おそらくこの間5日間は、出征前にN県に帰省か】
1942/11/25 東部第64部隊二転属ヲ命ス
1942/11/25 同月25日転属ノタメ高田出発【高田】
1942/11/26 同月26日佐倉着【佐倉】
1942/11/27 同月27日峯第8105部隊要員トシテ佐倉出発【佐倉】
峯第8105部隊とは、陸軍の通称号(兵団文字符+通称番号)で表記した部隊名
戦友会データベースで調べるか、なければアジア歴史資料センターで調べる。
アジア歴史資料センター https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/default
“峯8105”と検索すると、下記の1件がヒットする。“件名”をクリックすると詳細な説明ページとなり、
その下部に独立歩兵第90(峯8105)大隊と出ている。戦中のことはとにかくアジ歴で調べるのが一番の近道だ!

所属・配属部隊が決まると、陸軍兵士はほぼ同じコースをたどる(支那派遣軍の場合)。下関まで列車で行き、そこからフェリーで釜山へ、釜山から列車で山海関を通過する。山海関は満洲と中国の境界なので、これより支那ということになる。
1942/11/30 同月30日下関出帆【下関】
1942/11/30 同月同日釜山上陸【釜山】
1942/12/05 12月5日山海関通過【山海関】
さあ、ここから部隊略歴(実は上の画像でヒットしたものが部隊略歴で、閲覧ボタンを押すとpdfで見ることができる)
以下、部隊略歴は、「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122442400、中支那方面部隊略歴(その4)(防衛省防衛研究所)」による。
1942/12/05 同日峯第8105部隊第3中隊着附【山海関】
1942/12/15 同月15日武昌着【武昌】
1942/12/16 16日岳州着【岳州】

部隊略歴では、
1942/12/05 第9次補充員53名到着 として、山海関から支那に入ったことをもって到着としているようだ。
1942/10/01
1943/03/15 岳州長安付近警備【独立歩兵第90大隊は、占拠した地域を岳州長安に部隊を置き、占領を維持=警備】
実際に修蔵さんも岳州へ行っているのだから、ここまでは間違いがない。
さて、問題は1945年の8月附近だ。左に“陸軍戦時名簿”で修蔵さんの情報を、右に所属部隊の独立歩兵第90大隊の部隊略歴を載せて比較してみよう(陸軍戦時名簿/部隊略歴)。
1945/03/06 移駐ノタメ洪橋出発/移駐のため洪橋出発
1945/03/08 臨湘県桃林着/湖南省臨湘県桃林移駐
1945/03/08 同日ヨリ3月31日迠同地附近ノ警備/軍令陸甲第18号下令
1945/03/31 昭和20年度軍令陸甲第18号下令
1945/03/31 同日編成完結/編成制完結 大隊長土居常忠以下将校40名准士官11名下士官126名兵240名
1945/04/01 4月1日ヨリ8月20日迠桃林地区警備/
1945/05/11 5月11日ヨリ7月26日迠芷江作戦(亀●市地区警備)/
1945/06/15 /本土決〔戦〕要員として将校以下30名転出
1945/08/14 /停戦詔書発布
1945/08/18 /復員下令
1945/08/20 昭和17年12月5日ヨリ昭和20年8月20日迠独立歩兵第90大隊二在リテ中国方面勤務ニ従事ス
1945/09/02 /停戦協定締結
陸軍戦時名簿には、戦死の事項が書かれず、8月20日まで勤務に従事した、としか記録しないのはさておき、それより前に臨湘県桃林地区を警備”していたのに、なぜ監利県何家橋で戦死したのかが不明だ。直線距離で、約45kmも離れている。
百度地図(https://map.baidu.com/)
で、桃林から何家橋まで距離を測ってみた。

はんけいhttps://www.cloudwoods.jp/hankei/pc/
で、東京駅から45km半径を示した地図。鎌倉・青梅・牛久・久喜あたりになる。

次回は、この45kmのナゾの解決篇をお送りします!
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