タイトルは、自分に向けてです(笑)。
ある、中国古代史の先生が、自分が学生(大学院?)時代の経験として話したセリフ。
「以前は、中国古代史を専攻する学生がまずやることは、『前四史』を読むことだった。」
ちなみに前四史とは、『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』。
この先生の学問態度・学問方法に以前から尊敬の意を抱いていただけに、ずしりとくる。。。先生が学生の当時は中華書局のも出始めていたが、百衲本(標点なし木版影印)で読むということになっていたとのこと。まぁ、そうじゃないと勉強の意味が薄いのは確かだろう。
また、先達の先生方の随筆なんかを読んでも、
「『史記』を通読しようとしたが3ヵ月もかかってしまった」
などなど、戦後間もなくからおそらくは1970年代まで(あるいは1980年代まで?)はこうした、まず基本的な漢籍、歴史書を通読する、ということが当たり前な勉強方法(というか、その道に入る前提)として存在していたようだ。
自分の大学院時代の指導教官もしかり。
退官されるときに、二十五史(芸文印書館)の南北朝時期の部分を譲って戴いたのだが、少なからぬ部分に標点が打たれてあった・・・。ちなみに、その先生の専門は「宋代史」(もちろん北宋・南宋の趙宋)だったのであるが!!
紹介した上の2先生は、ちなみに言うと京都大学出身です。
東京の方でも、歴代食貨志の読書会や東大の律令研究会などが長年続いているし、西嶋門下の「魏書の会」合宿も毎年やっていると聞く。
おそらくは、すべて意味をとって読んでいるわけではないと思うのだが、通読することで、語彙や句法、語法に慣れ、さらにたとえ訓読でも何字で区切れるかなどのリズムを体得していったのだろうと思う。また、個人で興味のある分野の語彙ノートをとったり、面白そうな記事をメモしたり。。。学部で専門を選択してから修士課程くらいの間にこうしたことをしていたようだ。
自分は、大学時代に『三国志集解』を初めて手にしたときに、1ヵ月ほど夢中になって好きな人の伝などを集解部分を含めて読んだりしたが、その時も、あれこれ考えながら、標点を打ったり、この語の意味は分からないけれど、動詞の後ろだから何かの名詞に違いない、などと推理小説を読むような快感を覚えたことがある。同じ語が出てきて、あー、これは人名だったのか!と分かった瞬間などは本当に楽しかった(w
『後漢書集解』を読んだときには、木版で漢籍を読むよさを知った。もちろん中華書局の標点本はすばらしいものだと思うのだが、一度は標点がなく固有名詞に線が引いてなく段落も設けていない木版のテキストで漢籍を読むことをすべきだと思う。自分は本当に通読せずの短期間だけ読んだり、つまみ読みしかしてこなかったけれど、そうしたことが非常に勉強になったと今でも思う。
しかし、、、
通読したと言える漢籍は、『論語』だけ。。。
7,8年前に、『史記』を通読しようと早稲田の喜楽書房に持ち運びに便利な万有文庫の『史記』が2000円くらいで出ていたので買ったことがあった。文庫サイズで1冊60~80ページくらいと本当にハンディ。

すいません・・・孔子世家とか游侠列伝とかくらいしか読んでません↓
んー、
おそらくは今の修士課程の学生にとっては、修士論文を書くために、漢籍を通読するより研究書、関係の論文を調査・収集し、それらを読みこむことでかなりの労力・時間を使ってしまうことでしょう。日本での中国史研究の蓄積は相当なものです。また中国のそれらも同様の作業が求められることは言うまでもなく。。。
もちろん、漢籍を読まずして論文だけ読めばよいわけでなく、また漢籍を用いずに論文は書けません。だからこそ、通読でなく、つまみ読みになってしまうわけですが。
でも、やっぱり言い訳にしか聞こえないよねぇ・・・。まぁ、研究環境が以前とは違うことは確かなことです。なので、他人や後輩に何か通読しろ、と言うつもりは毛頭ありません。自分も通読できなかった、しなかったわけだし。
はてさて、通勤電車の中で万有文庫の史記でも読もうかな。。。でも断句してあるんだな、これ(笑)。たしか百衲本の縮印バージョンがあるから、どこかで安く手に入れて読むことにしよう。
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テーマ:研究者の生活 - ジャンル:学問・文化・芸術