自室は、コンポ・スキャナ・パソコンディスプレイが落下し、本棚にあったほとんどの本が床を埋め尽くしており、こんな例は不謹慎かもしれませんが、この度の陸前高田市の津波後の惨状のミニチュア版を見ているかのようでした。でも、本は破砕することなく、1冊1冊本棚に戻せば、多少のダメージはあるものの、文字が読めなくなるわけではありません。これに比べて、岩手、宮城、福島、茨城の津波被災は激しいところでは元通りになることはもはや望むべくもありませんし、すでに尊い人命が失われています。
家にたどり着き、雨風をしのげる場所と、ふとんで寝られる幸せをかみしめました。
報道を見て今回の震災・津波災害がいかに大きなものであるのかを自分なりに把握し始めました。
原発については20年以上前に、大学時代に自主ゼミで勉強しましたが、その時思った「危うさ」が露呈した形になっています。
「原子力は安全だ」と言い続けてきた人々の主張はその通りなのですが、それはすべてが「想定の範囲内」の場合に限ったことであって、ひとたび「想定の範囲外」のことが起きた場合には、即時に致命的な事故(「過酷事故」と言われている)に直結する。従って、原子力を管理する人は、「想定の範囲外」での対応も「想定」して、現実に事前に準備しておくことが肝要だというのが、その時の私の結論でした。
まだ状況は確定していませんが、スリーマイル以上の危機が現在進行中なのだと思います。
チェルノブイリ以下で収まって欲しいと願うばかりです。
今回の震災・津波被害・放射能被曝での最終的な被害者は1万人程度になるのではないかと思っています。とりわけ、津波の被害が尋常ではありません。東京を中心とした首都圏の交通が丸1日(以上)麻痺しましたが、東海沖地震が発生した場合、首都圏にも物理的なダメージが及ぶはずです。
おそらく「徒歩で帰宅せざるを得ない状況」「帰宅しても自宅が崩壊」ないし「ビルなどが倒壊し帰宅できない」場合や、「ライフラインの断絶」により「避難所で避難生活をしなければならない状況」が現実のものになるのは、容易に想定されます。私は常日頃から「防災用品を家に蓄えても無駄だ。なぜなら家が倒壊して防災用品自体取り出せないから」「防災用品を取り出せる程度の震災であれば、逆に防災用品は外部から調達できる」とのことから、自宅には一切防災用品を備えていません(その代わり、登山用品は一式をザックにつめてあります。登山用品一式はそのまま「一人避難所」になります)。
私は、登山を趣味にしています。比較的安全な夏山だけを登っていますが、それでも2000~3000m級の日本アルプスという自然を相手にすると、人力がいかにちっぽけなものかを悟ります(1000m程度の奥多摩でも思うことすらあります)。電気・ガス・水道・食糧がないところで何日も行動する準備とシュミレーションができています。当然のことながら、そうした装備を持って(つまり事前に考え得る最悪の状況に対応できる準備をして)、山に入っています。
登山の場合の最悪な状況における対応は「ビバーク」です。「ケガをする」「道に迷う」など何らかの状況で行動が不可能になった場合、その場を動かず、何日かたえうる「水」と「食糧」と「保温」につとめ、次の行動に移るあるいは「救援」を待つというものです。
今回、被災された方で、まだ救助されていない人は何人もいることでしょう。ひょっとしたら、何千人という単位でいるかもしれません。そうした方は「ビバーク」を余儀なくされているに違いありません。一刻も早く救助されることを願いますが、彼らに本当に必要なものは「水」「毛布」「食糧」だと思います。
そして現在、政府が率先して取り組むべきことは、被災者(すなわち人命)の救難であり、原発事故への対応だと思います。いずれも人命にかかわることです。「国民の人命と安全を確保する」と唱う「近代国家」が、本当にそれが実行できるかが試されている時でもあります。
思うところ言いたいことはたくさんありますが、これ以上のこの場での公開は控えたいと思います。
たとえここで言ったとしても、今困っている人に直接的に届くわけではないからです。
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