前回は2007年10月5日に書いた「4.中学生で『三国志』と出会う」でした。もう一年も前です^^;
高校時代は、ドイツの文豪ゲーテとかロシアのプーシキンとか日本の夏目漱石とか文学ものをよく読んでいて、三国志モノも当時出始めたのでそれは欠かさず読んでいた。漢文とのつながりは高校時代はあまり強くなかったと思う。
大学に入り『三国志集解』を買って、なんとか独力で読むようになると、三国志モノはたいがい集解にネタがあったり、あるいは集解にネタがありながら、三国志本には書かれていなかったりと、あまり読んでいても知識にならないのが分かってきて、大学2,3年で三国志関連本はいっさい買わなくなった。立ち読み程度。
2年生になって、当時はまだ教養学部などが残っていた頃、『論語集解義疏』を読む演習に参加した。論語の本文は訳本が何種類も出ているが、魏の何晏の集解とか梁の皇侃の義疏の部分が非常に難解で、魏晋の語法が入り込んできたりして、とにかく難しかった記憶がある。でも、その演習を通して、儒教経典の読み方(注があり、疏があり・・・)、後世の解釈の仕方(魏晋の頃は玄学で論語を解釈していた)を学んだ。
特に印象的だったのは、演習の担当教授(まだご存命です・TZ先生)が時折、
「ここのところはよく分かりませんね。読めません」
とあっさり言ってしまっていたことだ。
当時の僕は生意気というか、若気の至りというか、「なぜに教授なのに分からないんだろう」「分からなくて教えているなんてどうなんだろう」と心の中で思ったが、一方でたしかに自分が読もうとしても皆目読み方の見当がつかなかった。脱簡や錯簡があったからだと思いたいが、それにしても読みにくい箇所は本当に読めなかった。今は立場は変わり、自分自身が学生や研究仲間に漢文の意味を問われることがしばしばあるが、自分も分からないところは素直に「ここは分かりません。読めませんね」と言うことにしている。その方が、学問的態度として正しいと思うからである。TZ先生は中国古代思想が専門だったので、この後もつきあいは続いた。とはいっても、一方は教授で一方は学生なので、授業外でのつきあいは全くなかった。そのことは次回の「僕と漢文の思い出」で触れることになろう。
しかし、教授すら時に手を焼く『論語集解義疏』を、少人数で(たしか5人程度の参加者だと思う)しかも白文からいきなり読むというのは、漢文を読むという点からしたら相当鍛えられたと思う。当時はあまり『大漢和辞典』もひかなかったが、中型辞典(たしか旺文社の辞典だったと思う)を手にしてまがりなりにも読み進めたのは大きな財産となった。
テキストの『論語集解義疏』は、教授がコピーして配ったものを使っていたのだが、今でも大事にとってある。返り点と送りがなが付されたそれは、20年も前のものだが懐かしさひとしおである。考えてみれば、大学2年でよくも漢文の白文を、しかも日本語訳もない白文を、読ませる授業があったものだ。その前段階の漢文演習はまったくなく、いきなり白文の演習からスタートするというあたりは、今だったら到底考えられないだろう。そういう意味ではいい時代に大学時代を過ごさせてもらったと思う。
『論語集解義疏』は、魏の何晏が集解を作り、さらに南朝・梁の皇侃が義疏を作ったものだが、中国では南宋時期に失われていて、日本の足利学校に伝わっているものが唯一の版本である。清代になって中国に逆輸入されて中国の知識人を大きく驚かせた代物だ。
その後、大学を卒業してからずっと『論語集解義疏』を買いたいと考えていたが、ほとんど市場に出ない。卒業後10年くらいしたころに、東城書店だったか鶴本書店だったかで6000円くらいで買った。手に取った瞬間は、とても懐かしい思い出がよみがえってきた。台湾の広文書局で出版された上下2冊ものだ。
もうひとつ、2年生でとった古典漢語関係の授業にはZH先生の演習のゼミがあって、こちらでは『世説新語』を読んだ。生まれて初めて発表レジュメを作った(笑)。『世説新語校箋』かなにかがテキストだったと思う。こちらは何とか読むことができた。レジュメを作ることで『世説新語』の注に引かれている諸書の原典をあたり、異同を確認し、その訳もつけるという作業は、古典漢語を読む上では基本中の基本だが、大学2年でそれを実体験できたのはこれもまた大きな収穫だったと思う。『大漢和辞典』をひき、意味を調べ、訳を作る。それだけに没頭できた幸せな時代だったと思う。
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テーマ:漢文・漢詩 - ジャンル:学問・文化・芸術